戦艦・大和(前編)
実は大和については詳しく書いたことがありません。
では、何故今になって書くのかというと・・・私も数年前に行きましたが、最近、友人が「大和ミュージアム」に行ったからです。
まぁきっかけなんてそんなものでしょ。(笑)
【男のロマン】
さて、戦艦・大和をご存知の方も多い事かと思いますが、太平洋戦争時に大日本帝国海軍が建造した、当時世界最大の「戦艦」です。機能美はこうあるべしというくらい美しい艦です。大和を扱う映画も多く、また宇宙戦艦ヤマトになったり、男の子はプラモ作ったり。兵器ですが、日本人の多くを未だに魅了しています。
男のロマンって単純に表現したら女性から怒られそうですし、多くの人が戦死した兵器なんで左側の人にも怒られそうですが、私はそう思うんですから。(^◇^)
(大砲を積んでりゃ全部「戦艦」かと思いきや、実はちゃんと区分があるんですが割愛)
【建艦競争へ】
1934年(昭和9年)12月に日本は「ワシントン海軍軍備制限条約(1922年12月成立)」の脱退を通告します。(1936年失効)同時にロンドン海軍軍縮会議からも脱退。
ワシントン海軍軍縮条約・・・対・英米日の主力艦(戦艦など)の比率を5:5:3と定め、一定期間建造を禁止した。
ロンドン海軍軍縮会議・・・同様に補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)の保有比率を10:10:6.97とした。
海軍の条約派・左派三羽カラスと呼ばれる、山本五十六・米内光正・井上成美などは非戦を唱えており、国力の違い過ぎるアメリカとの軍拡競争を憂慮し脱退に反対でした。制限が無くなると、差は開く一方であると訴えています。実際に戦争末期にはアメリカは毎週末空母を進水させるほどの工業力を発揮しています。
これで約15年続いた軍縮時代(ネーバルホリデー)は終わり建艦競争に突入しました。
【大艦巨砲主義】
当時の主流の考え方は大艦巨砲主義と言い、海戦の主役は戦艦であり砲撃戦であるとするものですが、これを決定づけたのはある意味「日本海海戦」です。この時日本艦隊はロシア艦隊に海戦で勝利しますが、それは戦艦による砲撃戦の有効性を証明しました。
こののち、「大鑑巨砲主義」が時代遅れで「航空戦」になる事を真珠湾攻撃やマレー沖海戦で証明したのも日本でしたが、大和が計画され建造されていた時はまだ「大鑑巨砲主義」が主役でした。
山本五十六は「無用の長物」と言い、井上成美などは「明治の頭をもって昭和の軍備をおこなわんとするものである」と言いきり、航空機主役を訴えています。
【第一号艦計画】
先立つこと1934年(昭和9年)10月、海軍は福田哲二造船大佐に世界最大の巨艦の設計を命令します。
A-140計画(後に第一号艦)と呼ばれた計画が「大和建造計画」でした。
福田大佐は手記で「我々ハコノ時ヲ鶴首シテ待チ構エテイタ」と言っていますので、設計者冥利に尽きる計画だったのでしょう。
巨大建造物に製作者が燃えるのはなんとなくわかりませんか?スカイツリーだって東京タワーだって瀬戸大橋だって黒四ダムだって心境は同じかもしれませんねぇ。
【起工】
1937年(昭和12年)11月4日に広島県・呉海軍工廠で起工しました。実は修理ドックは現存しており、現在はJMU(ジャパンマリンユナイテッド)が使用しています。呉に行くと目立つように書いてあったように記憶しています。
主砲は46cm(長さ25m)を3連装を3基、計9門。(砲塔1基で2700トン)・主砲弾重量1400キロを900発・最大射程は41kmもあります。
防御も鉄壁で艦体中央部の重要部分(ボイラーや弾薬庫など)の装甲厚は最大で41cm。煙突口にもハチの巣装甲と呼ぶ装甲を施し、艦内を1147に区切って防水区画とし、最新鋭の「注排水システム」を備え、浸水しても艦を水平に保ちます。
敵との距離を測る「測距儀」の幅も15mと世界最大。後の我が国の工学技術の発展の基礎になり、造船に際し採用したブロック工法・早期艤装技術などの建造システムは、後の石川島播磨重工業の「経済船」に取り入れられ、造船大国日本を築き、そして世界に広まりました。
艦首は新技術の「球状艦首」を採用し抵抗を低減することに成功。
球状艦首は「バルバスバウ」と呼ばれ、現在では多くの船が採用しています。開発時には巨大水槽で何度も実験しました。その水槽は今でも防衛装備庁艦艇装備研究所で利用されています。
因みにスクリューの直径は5mもあります。
東京都目黒区に現存する巨大水槽。中央の長細い緑の屋根が水槽のある建屋。
(googleマップより)
分厚い装甲と十分な予備浮力・46cm主砲9門・基準排水量64,000トン・全長263m・最大幅38.9m・艦底からの高さ54m。
主砲発射時の爆風から守るため、「艦載機(偵察、連絡用に搭載)」「内火艇(上陸、連絡用に搭載した小舟)」は艦内に収容可能で、乗り組み員は3000名以上。
これほどの装備でありながらコンパクトに設計されています。
【大和ホテル】
士官室はクーラーが完備され、軍楽隊も乗艦。上級幹部の食事は一流ホテル並み。兵にもアイスクリームやサイダーがよく提供されたようです。
就役後は連合艦隊旗艦としてトラック泊地(現ミクロネシア連邦チューク諸島)で停泊している事が多かったため、豪華装備と相まって「大和ホテル」と揶揄されていました。
【就役】
建造費は1億3780万円。(6兆円に相当)国家予算の6%をつぎ込み、設計から6年の歳月を費やして、1941年(昭和16年)12月7日公試(テスト)終了、12月16日就役。
この時に、艦名付与基準(明治33年制定)に基づき、律令国家時代の国名から「大和」と命名されました。(命名基準については2019/05/31の記事を参照してください)
大日本帝国憲法では軍の統帥は天皇で、軍艦の命名は天皇が決定します。海軍からは当初「大和」と「信濃」が提案され、昭和天皇が「大和」と決定しました。
まさに最大・最強の浮沈艦と言える当時の世界最高技術の粋を集め、日本の威信と象徴たるべき巨大戦艦になりました。
「大和が沈むときは日本も沈む」とまで言われたそうです。
【極秘】
建造は国家の最重要機密であったため、沿線の鉄道には壁を設置し、ドックは大屋根で覆い、設計者すら現場に入る事を許されず、図面は分割され、主砲口径は40cmと偽りました。そのため戦争中、国民の多くはその存在を知りませんでした。
階級、経歴は一部のみ記載しました。
(後編に続く)