海洋立国論

勉強のつもりで書いています。

戦艦・大和(後編)

大和の後半生を見ていきます。

 

【世界最大の巨艦就役】

ハワイ真珠湾攻撃時にはまだ就役していなかった大和ですがその後すぐに就役、翌年2月に連合艦隊旗艦になりました。兵器としてはもはや無用の長物であり貴重な燃料を食うわりに低速な巨艦。

しかし威容を誇る美しい艦形はやはり多くの関係者を魅了した事でしょう。

 

ミッドウェー海戦

1942年(昭和17年)5月に連合艦隊司令長官山本五十六は早期講和を目指し、ミッドウェー作戦を実施しましたが、6月5日に機動部隊の主力空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を喪失しました。

この時、山本長官の乗った「大和」はミッドウェー攻略本隊として600キロほど後方にいましたが、空母がいなくなった艦隊ではミッドウェー攻略も難しくなり引き返しています。

その後トラック泊地に停泊する事が多くなり、前編で書いた「大和ホテル」と呼ばれます。

 

【戊号(ぼごう)輸送】

1943年(昭和18年)12月、「大和」は横須賀からトラック島へ物資や兵員を輸送する任務に就いていましたが、トラック泊地に入港直前にアメリカ潜水艦「スケート」から発射された魚雷の4発のうち1発を被弾。

右舷に4度傾斜し3000トン浸水。このとき想定外の浸水量があったことは設計上の不具合を露呈しました。自慢の水密区画が被雷によって歪み、艦中央部まで想定以上の浸水を起こしたのです。

しかし、駆逐艦なら1発で沈む魚雷攻撃にあっても注水によって傾斜は回復しましたので、運用側は「流石不沈艦である」と思ったのではないでしょうか。

この頃は制海権・制空権ともアメリカに奪われつつあり、兵員・物資の輸送とも軍艦でなければ輸送できないような状況になっていたのです。

 

レイテ沖海戦・捷号作戦】

海軍が起死回生を図った総力戦が通称「レイテ沖海戦(日本名:比島沖海戦)」です。アメリカのフィリピン上陸を阻止すべくフィリピン近海で陸海軍共同でおこなった作戦ですが、海軍の艦艇の8割の63隻、ほぼ全てを投入した海戦でした。

迎え撃つ米軍も軍艦170隻を投入。戦域も広く史上最大最後の大海戦でした。

空母中心の機動部隊が囮となり敵空母艦隊を誘引し北上、その間隙をぬって戦艦部隊がレイテ湾に突入し敵部隊を撃滅しようとするものでした。

この作戦において「大和」の同型艦「武蔵」が魚雷20本爆弾10発を受けて沈没。囮となった機動部隊も全滅。その他多くの艦艇も沈没しました。

「大和」はこの時に直撃弾1発を食らいましたが、初めて敵艦艇に向けて主砲を発射し、100発ほどの砲撃でアメリカの護衛空母ガンビアベイ」を撃沈しています。

この作戦では初めて「特攻作戦」が組織的におこなわれました。「大和」は10月23日呉に戻ります。

 

【沖縄水上特攻・天号作戦】

「大和」最後の戦いは有名な「天号作戦・海上特攻隊」です。

1945年(昭和20年)4月1日米軍が沖縄に上陸。これに反撃するため5日に天号作戦が発令されました。

沖縄に突入し座礁させ陸上砲台として大和を使うという無茶苦茶な作戦です。当然進路上に米軍が待ち構えています。アメリカは空母12隻航空機800機を数え、対する日本には上空を援護できる航空機はありません。

第二艦隊司令長官の伊藤整一中将はこの無謀な作戦に猛反対しましたが、「一億総特攻の魁となって欲しい」との言葉に従います。大和を片道で特攻させる訳にはいかないと、満載の7割ほどの燃料を他の艦艇から抜き取ってまでかき集め作戦は決行されます。

4月7日8時15分索敵機に発見され11時7分戦闘開始。

12時45分に左艦首付近に魚雷が命中。その後次々に魚雷が命中します。被雷した魚雷10本のうち8本が左舷側でした。

これは同型艦の武蔵の時に20本もの魚雷が必要だった事を踏まえ、攻撃を片側に集中させたのです。

大和は都度注水し傾斜を復元しますが、その度に速力は落ちていきました。14時20分に復元不能となり作戦中止が命令され、伊藤長官は駆逐艦に乗員救助を命令し「皆、ご苦労さまでした。残念だったね」と言い残し、長官室に入り内から鍵をかけ艦と運命を共にしました。享年54歳。

14時27分1000mもの爆炎をあげて大和は横転転覆し、有賀艦長以下乗り組み員3000名と海に沈みました。救助されたのはたった290名。沈没地点は北緯30度43分・東経128度04分水深345m。

 

日本海軍の終焉でした。

 

欧米の艦船と比べればどことなく日本的な美しさを備えた大和は、日本海軍の誇る日本の象徴たるべき艦でした。

開国以来、欧米列強に追いつけ追い越せとやってきて、世界一の大戦艦を建造したことは日本人の能力と熱意の表れだと思います。

しかし、日本は退くべき時に退く事ができず、戦力の逐次投入を繰り返し、使う場所と時間を間違え、前線で得た経験を次に活かす仕組みも無く、能力よりも兵学校時代の成績(ハンモックナンバー)が昇進に影響するなど硬直化した組織でした。

日本軍(あるいは日本人そのものと言ってもいい)は、過去の成功体験を引きずり、協調を好むあまり閉鎖的となり変革を避け、異端者を排除する風潮がありました。

これではイノベーションは起こりえません。大鑑巨砲主義に長く固執したことや、日露戦争以来の銃剣突撃、零戦の性能と搭乗員の技量に依存した空戦、海上護衛戦と補給や兵站を軽視する風潮。

一方のアメリカは撃墜されたパイロットを、潜水艦などで救助しのちに教官として経験を役立てたり、戦闘の記録を詳細に分析し対応策をすぐに講じるなど柔軟に戦いました。

兵学校の成績に関わらず優秀な人材は積極的に登用し、新兵器の開発にも注力。

海兵隊まで創設するなど欧州戦線の教訓も太平洋で活かしています。組織論でも情報戦でも科学力でも工業力でも日本はアメリカに負けました。

 

しかし、この当時は多くの将兵は「日本の為家族の為に少しでも敵を多くやっつけてやるぞ。」その為なら命を投げ出す覚悟であり実際にそうしたのであったと思います。

もし日本が選択した道が誤っていたとしても、後世の平和な時代に生きる我々に先人を断罪する資格はありません。ただ、結果として日本は歴史を繋ぐ事ができています。そのことを感謝しつつご冥福を祈らずにはおられません。

二度と戦争を起こさないために、起こさせないために日本は「外交力・経済力・軍事力」によって高い「抑止力」とそれを制御する「仕組み」と「理性」が、ますます必要になっているのだと思います。

 

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大和ミュージアムの1/10模型