2.委任統治過程のあらまし
第一次世界大戦終戦に伴い、大正8(1919)年1月18日から実施されたパリ講和会議で敗戦国の処分などの重要案件について五大国最高会議(以下、最高会議)で話し合われた結果、同年2月14日に委任統治条項草案が採択された。
これは第一次世界大戦中に連合国がアフリカと太平洋のドイツ植民地、オスマン帝国の一部(トルコ地域を除く)を占領したためである。
日本が占領したドイツ領は赤道以北のミクロネシア地域、ニュージーランドはサモア諸島、オーストラリアはニューギニアやソロモン、ナウルなど、委任統治の原案を考えたスマッツ将軍の率いるイギリス(南アフリカ軍)は東部アフリカ(一部はベルギーが占領)、イギリスはイラクやシリアなど、英仏軍がカメルーン、トーゴランドをそれぞれ占領した。
大戦中の1915年から1916年にかけて英仏露がオスマン帝国領土分割の秘密協定である「トルコ領土配分に関する連合国秘密協定(サイクス・ピコ協定)」や、1917年には英仏露伊が日本の南洋群島領有を秘密裏に支持した。
このように各国の思惑により多種の秘密協定が締結され、これらの占領地と各種覚書や協定により、その後の委任統治割り当ては、戦後にほぼそのまま当てはめられた。
統治地域の配分は最高会議がその権限を持った。最高会議とは「主たる同盟および連合国」(PAAP)の代表「日英米仏伊の5か国」であり、いわば戦勝国による政治体制であったため、その権限や主権の有無はあいまいなままであることが、のちの日本の国連脱退後の統治権についての議論を呼ぶ一端となる。
その後、ドイツはヴェルサイユ条約第119条の「独逸国ハ其ノ海外属地ニ関スル一切ノ権利及原権ヲ主タル同盟及連合国ノ為ニ放棄ス」に従い「主たる同盟及び連合国」に対して全海外領土を放棄したが、この条文にはどの植民地もその帰属先は明記されていないため、大正8(1919)年5月7日の最高会議においてその帰属先が定められた。
この委任統治制度を最初に提唱したのはイギリス人のヤン・クリスチャン・スマッツ将軍(1870-1950)である。当時はイギリス自治領南アフリカ連邦の代表であった人物でイギリス戦時内閣の閣僚だが、彼の原案では「敗戦国の失った領土(旧トルコ領)は国連が相続者であり、施政は植民地統治経験のある国に委託すべきものであるが、ドイツ海外植民地は野蛮人の地であり自治能力を欠くため含まない」とした。
日本は五大国最高会議において、青島とドイツ領南洋群島の割譲を要求していたが、特に列強から反対は無く、またニュージーランドはサモアを、オーストラリアはニューギニアの併合を希望したため、あえてドイツ海外植民地を除外した。
しかしアメリカのウィルソン大統領は併合は絶対反対の立場をとったため、ドイツ領土の処分をめぐり併合派の日英仏と非併合民族自決主義、国際管理派の米との協議の結果、妥協点として委任統治制度が生まれることになったのである。
国際管理を要求していたウイルソンは、スマッツが除外していたアフリカや太平洋のドイツ領を委任統治地域に含めることで妥協した。
ウイルソンの意図を南洋群島に限っていえば、南洋群島を日本が領有し何の制約も受けない併合は、米本土とアメリカ領フィリピンとの連絡を遮断されかねない危険や、マリアナなどはグアム・ハワイに近く、脅威度が高いことと、委任統治としておくことで国際監視下に置き、それによって軍事化をある程度は制限できるからであって、一般的に言われるようにウイルソンは決して人権や自治権を重視した訳ではなく、国益を考慮し、委任統治範囲にドイツ海外植民地を含めることで、安全保障上の脅威が発生することを軽減しようとしたのである。
近代国家の原理とされる、ウェストファリア体制的な主権国家とは言えない地域を、どのように扱うかは現代にも通じる議論であった。この委任統治制度は国連規約22条に規定されたが、国連の委任によって統治する(後見)という形であるが、戦勝国による敗戦国ドイツの領土配分(獅子の分け前)であることは明らかである。
各国の思惑が入り乱れた結果、あいまいな点を多く残したことが、日本の国連脱退後(1933)の委任統治の正当性に関する議論が国内外で噴出する一因となり、その議論には各国の政治家、学者、思想家などが入り乱れたが、国連は「なにごともないように」ふるまったのである。事実、受任国資格に関する決議などはおこなわれていない。
そもそも国際連盟という組織自体が「楽観論」に基づいて創設された組織である。元々はイギリスの政治学者であるゴールズワージー・ロウズ・ディキンソンが第一次大戦中に、論文中に用いた国際組織を「国際連盟」と呼んだが、その後アメリカ大統領ウィルソンによって支持され広まった国際組織名称であって、ウィルソンは破れやすい「力の均衡」による安定を完全に否定し、「国家の共同体」による安定を目指した。
創設者の一人でノーベル平和賞受賞者でもある、イギリスの政治家ロバートセシル(セシル卿)は、「国連の用いうる最も有効な武器が、経済的なそれでも、軍事的なそれでも、またその他いかなる物質的な力を持つ武器でもないことは真実である。我々が有する最も有効な武器こそ、世論という武器である」と言い、また「現在ほど戦争の起こりそうにない時代は世界史の中で稀である」とまで言っている。しかし実際にはこの発言のおよそ1週間後に満州事変が勃発している。
セシル卿は世論が政治を正しく誘導できるとさえ考えていたのだが、世論がいかに危険をはらんだものであるかは後の世で証明されることになる。後述するが世論が如何に不安定であるかは幣原喜重郎や堀内三郎が見抜いたとおりであった。ある意見が広く報道されることによって、世論を誘導したり形成した結果、互いの妥協を妨害して外交を失敗に導く実例を現代の我々日本人も経験している。
当時の世界は欧州を中心とした「力の均衡」によってバランスが保たれていたに過ぎなかったのである。
これら楽観論の反省によって、第二次世界大戦後の国際連合憲章には国連軍や安全保障委員会やその外の「力の均衡」を前提とした規定が盛り込まれることなった。