海洋立国論

四方を海に囲まれて。

「散る桜残る桜」―甲飛十期の記録― より

【最後の紫電改パイロット】
2021年1月9日ー
「最後の紫電改パイロット」笠井智一さんが94歳で亡くなられました。
 
この事に因み、最初は乗機だった局地戦闘機紫電改」や「紫電」、それらの原型となった「水上戦闘機・強風」を取り上げようと思ったのですが、笠井さんは甲種・海軍飛行予科練習生(通称:予科練)十期出身であったこと、また手元に分厚い冊子(全600ページ)の「散る桜残る桜」―甲飛十期の記録―(昭和47年発行・甲飛十期会編・非売品)がありますので、この内容を少し紹介しつつ、先の大戦で亡くなられた多くの方々を偲ぼうと思います。
 

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予科練
私は子供の頃、「予科練の歌(作曲:小関裕而 作詞:西条八十」)を聞いた覚えがありますが、世代で予科練に対する印象が全然違うでしょうし、そもそも予科練という呼称を若い方は聞いたことが無いかもしれません。
 
先の大戦では航空機の重要性が高まり、搭乗員の育成が急務となっていました。
このことから戦況がひっ迫してから搭乗員速成のために組織されたと思われがちですがそうではありません。
 
昭和の初めごろから将来の搭乗員需要の高まりを見越して、従来の方法に加えて創設された制度であり、予科練制度自体は昭和五年に第一期が募集されています。
 
受験対象は高等小学校卒業者で90名の採用枠に対し5,764名の応募で採用76名、その後も年2回の募集で平均競争率80倍という超狭き門であり、学業体力とも優秀なものが採用されています。修学年限は3年間。
 
当時は学業優秀でも経済的理由で進学を諦めざるを得なかったり、衣食住が保障され兵学校にも進学でき士官になれる可能性があったとPRされていたこと、最先端の飛行機に乗れることへの憧れなどもあって応募が多かったと書かれています。
 
【甲種の創設】
甲種というのは昭和12年にできた制度で、採用資格は旧制中学4年1学期修了程度の学力、修学年限は1年半。
 
予科練習生は殆ど飛行機には乗らず基礎鍛錬・基礎教育が殆どであり、娑婆っ気を抜く事が主要な目的だったようです。
飛行訓練は「予科」が取れて飛行練習生になってから始まります。従来の一期から八期は「乙種」とされ、一応区分されてはいます。
 
甲種の入隊状況を見てみると、第一期(昭和12年9月)212名から第七期(昭和15年10月)312名まで徐々に入隊数が増えていますが、開戦濃厚であった第九期(昭和16年10月)は841名、開戦後に入隊している第十期(昭和17年4月)は1,097名と急増し、戦況がひっ迫してきた第十三期(昭和18年)は、28,111名と第一期の130倍以上になっています。
 
しかしこの制度自体が右往左往している様子が書いてあります。戦況などによって状況が変わったのも一因なのでしょうが、この本には「われわれ予科練出身者の者にさえ、身分規定が良く理解できない」とか「取り扱いの無責任さは常識では考えられない」と書いてあり、そのような組織マネジメントの杜撰さ、グランドデザインの無さは随所に出てきます。
 
開戦に至る経緯や終戦時のゴタゴタ、現代のコロナ対応まで、これはもはや「国民性」なのかと言いたくなります。
 
【激戦地へ】
この甲飛十期は多数の戦死者を出しています。入隊者数1,097に対して戦病死者数は777名。戦病死率は7割にも及びます。
 
開戦劈頭、新人でさえ搭乗員は千時間に迫る飛行時間で、先任搭乗員にも中国戦線で実践を経験した者も多数おり、乗機も当時世界一の性能を誇った零戦であったのに対し、甲飛十期は育成機関が短縮され実機訓練も1カ月そこそこの訓練不十分、指導にあたる実践経験豊富なベテラン搭乗員や優秀な士官が不足した状態で、質の悪い燃料と故障の多発する飛行機に搭乗させられ、アメリカ機動部隊と直接対峙する「第一航空艦隊」などの中心搭乗員として配属するという上層部の愚策が、戦死率の高さの一因であったことは間違いないでしょう。
 
さらには昭和19年10月フィリピンにおいておこなわれた初めての神風特別攻撃隊(特攻)など多くの特攻隊員として、また全戦線において中堅搭乗員となっていたことにも求められます。
 
【追悼】
最後に笠井さんのことも少し触れておきます。
笠井さんは山本五十六連合艦隊司令長官パプアニューギニアブーゲンビル島上空で戦死した時、長官乗機の一式陸攻を「空戦の神様」と呼ばれた杉田正一一飛曹と護衛しています。
(その時の護衛機6機のうち杉田・笠井の他は当地で戦死)
 
ヤップ島では「撃墜王」菅野直大尉の3番機を務め、(4番機も同期の松尾一飛曹、その後体当たりで戦死)ており、技量優秀な搭乗員を集めた本土決戦部隊であった第三四三海軍航空隊 (343空)でも杉田機の二番機を務めています。
 
このことから、笠井さんはじめ予科練生は練度未熟故に「突っ込むだけで良い特攻をさせた」などの非難はあたらないでしょう。空戦で米軍機を撃墜している記録も沢山あるのです。
 
特攻機に十期生が搭乗し、その「直掩(上空援護)」機も同期生がしていたことも多く、この時の同期生を特攻に送り出す心境はどのようなものだったのでしょうか。
無事に護衛任務を果たす時は「特攻」する時なのですから。
 
【遺書】
さて、この本の冒頭には遺書や遺稿が多く掲載されています。
どれも涙無くしては読めないものばかりですが、ほぼ共通するのは「親への感謝」「郷里への想い」「ご心配ご無用」などと書いてあります。
検閲があるため書きたい事が全て書けた訳ではないでしょうが、非常に達筆で入隊時には平均17歳だった少年の言葉とは思えません。予科練時代によほど精神を鍛錬したのでしょう。
当時の彼らがそのような厳しい鍛錬にもよく耐えている様子も書かれています。筆舌に尽くしがたい体罰や厳しい課業、暮らしぶり、そんな中で醸成されていく仲間意識が読み取れます。
 
【生き様として】
とにもかくにも、十期生は20歳になるかならないか、またベテランといっても25歳前後の青年たちがどのような想いで生きて戦ったのか、そのことはいつまでも深く考えていきたいと思います。
甘えと怯えの時代と言われる現代に生きる私は、亡くなった方々に恥ずかしくない生き方ができているとは思えません。わが身を振り返ると恥ずかしくなります。
 
【雑記】
昭和17年1月20日は衣料の購入が点数切符制に変わっています。(正式名は「繊維製品配給消費統制規則」)
またこの頃に有名なラバウルを占領し、ビルマ進攻作戦も開始されています。
 
写真上 散る桜 残る桜 -甲飛十期の記録ー
写真下 自作の紫電改のプラモ(ハセガワ1/48)

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