海洋立国論

勉強のつもりで書いています。

昭和19年10月25日

この日が何か知っている方は多くは無いでしょう。しかし、「特攻隊」この言葉はご存知でしょう。当時の海軍の正式名称は「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と言います。

 

昭和16年12月8日に始まった「太平洋戦争(大東亜戦争)」は、開戦初頭と様変わりし、じり貧の日本軍はフィリピンで戦いを繰り広げていました。

 

昭和19年10月に着任したばかりの大西瀧次郎中将(20日に第一航空艦隊司令長官)は、部下と相談し戦闘機に爆弾を搭載し体当たりさせることを立案し、名前を「神風特別攻撃隊」と名付け20日に関大尉を隊長として「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」合計24名で編成しました。

設立の経緯は諸説あるのですが、大西中将の案に対し及川古志郎軍令部総長が「決して命令してくださるな」と念押ししているようです。

大西中将も前年に部下からの進言があった際には「統率の外道」として却下、フィリピン着任前にも上官に対し「強制命令でやれとはどうしても言えぬ」と言っており、かなり迷った様子が伺えます。

 

しかし、既に日本は機材も不十分で技量の未熟な搭乗員(パイロット)が多く、大西洋戦線で戦ってきた歴戦の米軍パイロットが乗る最新鋭機には到底太刀打ちできなくなっており、艦隊戦でも戦力差は歴然でした。

既に海軍は組織的に特攻兵器を数種作り始めており、「特攻」しかやれぬと決断したようです。

 

大西中将は三国同盟や開戦に反対の立場でしたが、開戦後は航空戦力に力を入れるべきとしており、その航空戦力の弱体化が特攻を誘引したのはなんとも皮肉です。

大西中将の写真を見ると、どっしりとした体躯、ふくよかな顔の人でしたが、非公開の写真では特攻機を見送る頃には、別人のように痩せこけて暗い表情になっていたそうです。

 

特攻が始まって以後も「統率の外道」と言い続け、終戦の翌日には切腹によって果てました。享年55歳でした。

切腹は腹を十字に割き、胸を突き刺しましたがなかなか死ねず、駆けつけた軍医や部下に「介錯と延命は不要。できるだけ長く苦しんで責任をとりたい」と言い、ったそうです。

 

最後に残した遺書です。

(改行等はスペースの都合上変更、原文には句読点は無し。)

 

特攻隊の英霊に日す、善く戦ひたり深謝す。 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり、 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり、 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ。 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり。

隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ。諸子は国の宝なり。

平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と、世界人類の為 最善を尽くせよ…

海軍中将大西瀧次郎

 

今日は平成29年10月25日。多くの亡くなられた方のご冥福を改めて祈ります。

戦争は始めることは簡単ですが終わらせることはなんとも難しいもの。このような事を二度と繰り返さないように、しっかり学びたいと思います。